河内街道を往く〜諏訪神社|古の人々の信仰心に思いを馳せる@東大阪市中新開

伝説をたずねて
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奈良まほろばソムリエ検定の勉強をしていたら、居住地の歴史にも興味が沸いてきたので(以前、調べてみたときはいまいちピンと来なかった)自宅近くを走る『河内街道』を歩いてみることにしました。

街道といっても、古い村々をつないだ道で『河内街道』と呼ばれるようになったのは明治時代からなので、意外と新しい。

今回は東大阪市中新開に鎮座する諏訪神社を訪れてみました。

戦国時代に諏訪からやってきた氏神様

諏訪神社 ご由緒

 諏訪神社に伝わる「氏神三社交流記」(市文化財に附指定)には、神社の縁起について次のようなことが記されています。

大日本國五畿内河内國河内郡に勧請奉る諏訪大明神は吾が先祖信濃國諏訪の住人諏訪連の子孫、動乱により当地に来たりて耕作し、新田を開き中新開村と名付け、先祖をお祭りするために三社を勧請奉り建立す

 中央諏訪大明神、左殿稲荷大明神、右殿筑羽大権現、此三社はすなわち当社の氏神なり

専ら祈りて神の擁護により天下泰平、國土安穏、五穀成就、無病無難、我が村民子孫永久に繁盛、三社の神徳仰ぐべき也、我が子孫末代に至るまで祭礼献供神務怠ること勿れと巻物三巻を我が子々孫々に伝える

神主諏訪連吉盛(花押)

天文元辰年(一五三二)九月廿六日

要約すると・・・

  • ここに勧請した神様は、自分たちが先祖代々諏訪の地で祀ってきた神様。
  • 戦乱を避けて、この地にやってきてからは、新田を開拓して、中新開村という新しい村もつくって落ち着いたので、先祖をお祀りするために三社の神社を建てた。
  • 中央の社には諏訪大明神(先祖伝来の神)、左殿には稲荷大明神(農耕の神)、右殿には筑羽(筑波?)大権現が祀られている。
  • この三社はこの地を守護する氏神でもある。
  • 一途に祈れば、神のご加護で、平和でおだやかな世となり、穀物は実り、病気や災難にもあわず、一族は栄えるので、三社を大切にしてお祀りすること。

要約というより超訳かもしれない…

当時の時代背景としては、武田信虎たけだのぶとら(武田信玄のおとん)が浦城の戦いに勝利し甲斐を平定した頃なので、戦国時代真っ只中。

戦乱で隣の信濃国も荒廃していたのかもしれない。

どういう経緯で信濃の住人たちがこの地の存在を知り、移って来たのかはわかりませんが、戦国の動乱期においても、この辺りは比較的穏やかだったのかもしれないですね。

推察の域を出ませんが。

みどころは室町末期に建立された本殿…のはずだった

さて、諏訪神社のみどころはなんと言っても東大阪市最古の建築物とされる本殿でしょう。

江戸初期に大改修が行われたとはいえ、室町末期に建立された建物。

三社あったうちの一社しか残っていませんが、桃山様式の華やかさもみられるという花鳥彫刻など必見です。

本殿はこの拝殿の奥に・・・

んんんんんん???

拝殿の後ろにまわりこんでみたものの、どうやら覆屋おおいやの中に入れられ厳重に管理されているようです、残念。

地元の方にお話を伺ったところ、「すごいんやで」とはおっしゃるものの今は見られなくなったということで、特別公開されることもなさそうですね。

神社へ直接問い合わせたわけではないのでわかりませんけども。

現在は境内に設置された説明板に印刷されたモノクロ写真から想像を膨らませるしかなさそうです。

火焔のネックレスをした狛犬

くまなく神社を巡ったわけではないけれど、関西圏の狛犬はあまり個性的な造形のものはないように思えます。

だいたい同じポーズでちょこんと座って参拝者を迎えてくれる。

それでもよく見るとそれぞれの個性はあるんじゃないかと考えを改め、神社に訪れた際は狛犬にも注視しようと思います。

そんなわけで狛犬注視第一弾はこちらの狛犬です。

石材もわかるといいのでしょうけど、さっぱりわかりません…

制作年代は摩耗してわかりづらいのですが、台座に明治??年と彫られていました。

比較的新しめですが、それでも欠けてしまったのか、ところどころに補修のあとが見受けられます。

ここの狛犬は、巻毛がおしゃれで可愛いなと。

首周りに火の玉の首飾りをしているようにも見えるので、悪意を持った侵入者が来たら、この火の玉が具現化して攻撃とかしたら面白いなぁ…などと妄想してみる。

黒龍のいる手水鉢

龍の口から水は出ていませんでしたが、手水鉢に貯められた水は澄んでいて、ひとつのゴミも沈んでいませんでした。

おそらく氏子の方々が毎日綺麗にしておられるのではないでしょうか。

手水鉢の側面に奉納者の氏名が彫られていましたが、いつ奉納されたかは彫られておらず詳細は不明。

手水鉢の上で飜るマイタオル、もとい奉納された手ぬぐいが印象的でした。

境内には天保年間に建てられたおかげ灯篭

境内にはいくつか灯篭があるのですが、文字がかなり摩耗していて読めません。

かろうじて読めたのがこちらの灯篭になります。

灯篭の竿をよく見ると「おかげ」「太神宮」と彫られています。

「太神宮」とは、「天照大神を祀る宮=伊勢の皇大神宮(内宮)」のこと。

天保二年(1831)辛卯年九月(かな?)と見えるので、1831年の「おかげ年」に街道沿いに建てられたものを(おかげ灯篭は街道沿いや村の出入り口に置かれた)こちらに移設したものと思われます。

おかげ参りとおかげ年

おかげ参りは江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣のこと。

数百万人規模のものが60年周期で繰り返され、その年を「おかげ年」というようになりました。

「おかげ年」のはじまりは、明和八年(1771)のおかげ参り流行の時で、「神様からおかげ(恩恵)をもらう」として「おかげ参り」という言葉が誕生。(諸説あり)

この灯篭が建てられた天保二年(1831)が本来の「おかげ年」でしたが、その前年に伊勢神宮の式年遷宮があったこともあり、文政十三年(1830)からおかげ参りが始まりました。

全国から押し寄せてくる大群衆(まさに民族大移動)のため、伊勢に至る手前の大阪や奈良の街道沿いでは大混乱。

奈良の暗峠周辺の宿屋では(この辺りに宿屋があったことが今では想像できませんが)、辺りの宿屋すべてが満室になるばかりでなく、身分の高い者でも野宿することは珍しくなく、水や食料を摂れず行き倒れる人もありました。

この集落がある地域でもかなりの人の往来があったのではないでしょうか。

時代背景としては、同じ年に安治川の浚渫(しゅんせつ・ここでは安治川の底をさらって土砂などを取り除くこと)工事が行われ、その土砂を積み上げて天保山が築かれました

天保四年(1833)には天保の大飢饉が起こり、貧しい農民による一揆や庶民による反乱(大塩平八郎の乱)などが頻発するようになります。

そのような社会情勢のもと、おかげ参りも往時ほどの盛り上がりは見せないようになっていきます。

謎の「明龍大神」

諏訪神社正面前に立っている倉庫(らしき建物)の脇にポツンとある石標。

「明龍大神」だってー。

今年は辰年だしめっちゃ気になる・・・と思い、辺りを徘徊してみたのですが、それらしき社や祠も見当たらず。

帰宅して調べてみてもよくわかりませんでした。

裏にまわり込むと昭和二十五年三月建(?)と彫られています。

思いの外、新しいですね。

新興宗教的な何かかな・・・とも思ったのですが、諏訪明神やその眷属が龍や蛇の姿をとるという逸話が残っているので、そのことと何か関係があるのかもしれませんね。

ま、真実は闇の中ということで。

今回はこれまで・・・

ここまで読んでくださってありがとうございました。

DATA

所在地大阪府東大阪市中新開1-11-20
拝観時間境内自由。
※社務所らしきものはあるものの開いているのをみたことがありません。
駐車場なし
※神社の周りの道はかなり細い上に駐車スペースなどもありません。
車で行くと泣きをみます。
自転車であれば隣の公園の隅に駐輪できます。
アクセス近鉄けいはんな線「吉田駅」から約800m。
道が入りくんでいてわかりにくいかもですが、大きな楠の御神木が目印です。
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