梅雨もそろそろ明けるかという蒸し暑い日。
『河内三太子』めぐりの最後の地、「上の太子・叡福寺」を訪れました。
太子自らが定めた廟所
叡福寺には、聖徳太子のお墓があります。
寺伝によると、聖徳太子は二十七歳の時、神馬甲斐の黒駒に乗って天上を駆け、行脚をしている途中、富士山頂に到達しました。
富士山頂から下界を見渡した太子は、西の方から五色の光が輝いて差し込んでくるのに気づきます。
どこから差す光なのかと興味を持った太子は、五色の光に導かれてこの地を訪れました。
太子はこの場所が他にはない素晴らしい霊地であると悟り、自分の墓をここに造ると決めたとされています。
二十七歳にして「ここに自分のお墓を作りたい」と思う心境ってどんなものなのでしょう。
住みたいではなく、お墓を作りたいと思う心境とはいったい…
太子が黒駒と一緒に降り立った場所・五字ケ峰
太子廟の裏山には、「五字ケ峰」という名前の、太子が黒駒と一緒に降り立ったといわれているこの場所があります。
なぜそう呼ばれているのか詳しくはわかりませんが、五色の光に導かれたことが関係しているのかもしれません。
なんと太子廟から徒歩10分くらいで行くことができるんです。
現地を訪れるまで知りませんでしたが。
せっかくなので、太子の降り立った場所まで行ってみることにしました。
道中は「THE 山道」です。
きれいに整備されていますが、くれぐれもサンダルなどでは行かないように注意しましょう。
あと雨のあともかなり滑りやすくなると思いますので、注意した方がいいでしょう。
一段一段の段差がかなりある場所もありますので、足元には気を付けながら登って下さい。
それと、「イノシシ注意」の立て札もありましたので、春や秋は周りの気配にも注意を払った方がいいでしょう。
約5分ほど登ると山頂にたどり着きます。
見晴らしのよさを少し期待していましたが、ご覧の通り辺りは雑草と雑木に覆われていて、景色を見ることはできませんでした。
広場の中央には宝篋印塔が立っており、結界石には観世音菩薩の梵字が彫られています。
太子信仰では、太子は観音菩薩の生まれ変わりとされているため、観世音菩薩のが彫られているのでしょう。
聖徳太子のお墓にまつわる七不思議
聖徳太子の生涯は数多くの伝説で彩られていました。
そのためか、彼のお墓にも『七不思議』として知られる不思議な話が伝えられています。
七不思議① 聖徳太子御廟の周囲を囲む「結界石」は弘法大師が一晩で建てた
聖徳太子御廟の周囲を囲む「結界石」は、弘法大師が一晩で建てたと伝えられています。
そして不思議なことに、この石は数えるたびに数が違うとか。
「数えるたびに数が違う」研究者泣かせですね。
弘法大師がお茶目なイタズラをしているのかもしれません。
ただ、残念なことに御廟の周りは立ち入り禁止になっているので、一般人である私たちには数えることができません。
太子のお墓の周りを弘法大師のイタズラに翻弄されてグルグルしたかったですね。
聖徳太子御廟の結界石について
聖徳太子御廟は「結界石」と呼ばれる石柱で囲われているわけですが、これは他の古墳には見られない特徴で古墳造設当時にはありませんでした。
この石柱は、聖地と世俗の境界を分ける重要な役割を持っているとされていて、聖徳太子=観音菩薩の生まれ変わりとして信仰が広まりをみせた平安時代以降に、太子の尊いお墓を守るために設けられたと考えられています。
外側(下段)の石柱は1734年(享保19年)に作られた花崗岩製の石で、厚さ約20cm、幅約30cm、高さ約80cmの大きさです。
石の頂部は角山形に切り取られており、浄土三部経と呼ばれる経典が彫られています。
一方、内側(上段)の石柱は凝灰岩製で、風化が激しい状態になっています。
上部には観音の梵字が彫られており、七不思議では弘法大師(空海)が作ったものだとされていますが、実際には鎌倉時代に作られたものと推定されています。
七不思議② 聖徳太子御廟には松の木が生えない
聖徳太子御廟には松の木が生えないのだそうです。
松の木生えてるやん(汗)
ただし現在の御廟は…
確かに松の木は生えていないようです。
もしかして七不思議にあわせるために切ったのでしょうか?
いや、そんなことはないと思いますけども…
御廟の上のことを言っているのでしょうか。
確かに松の木は生えていないような気がしますが、御陵の後ろは確認できませんし、はっきりしたことはわからずじまい。
ただし…
御陵の後ろの「五字ケ峰」には松が生えていました。
七不思議③ 聖徳太子御廟には、竹や笹が生えず、鳥も住みつかない
聖徳太子御廟には、竹や笹が生えず、鳥も住みつかないといわれています。
御廟の東側を仰ぎ見た感じでは確かに竹や笹らしきものは生えていないような…
木々が鬱蒼としていて鳥が住んでいるか否かまではわかりませんでした(汗)
七不思議④ 大雨が降っても聖徳太子御廟の廟窟には水が流れず、土もまったく崩れない
大雨が降っても聖徳太子御廟の廟窟には水が流れず、土もまったく崩れないそうです。
「まったく」というのは言い過ぎかと思いますが…
現在廟窟はなぜかコンクリートで固められているので、水が流れ込まないのは間違いないと思います。
七不思議⑤ 聖徳太子の死後433年後に予言通り『太子御記文』が出現する
「太子御記文」とは、聖徳太子が書かれたとされる予言文書です。
622年に亡くなった聖徳太子は「自分の死後430余年経つと記文が出現する」と予言していました。
叡福寺は「太子御記文」という碑文を瑪瑙石の石板(サイズは約45×21×7cm)として所蔵しています。
1054(天喜2)年9月20日に、聖徳太子の御廟の近くに石塔を建てようとしたところ、長さ1尺5寸(約45cm)、幅7寸(約21cm)の箱状の石が地中から出てきました。
その石を開けると、中には「太子御記文」という文字が刻まれた文書が入っていたということです。
その文書には…
「今年は辛巳の年(1051年)。
河内国石川郡磯長の里に、非常に美しく素晴らしい場所があったので、私の墓所と定めた。
私がこの世を去ってから430年ほどが経ち、この記文が現れたとき、国王や大臣たちは寺や塔を建て、悟りを得るために仏法の教えを求めるだろう」と書かれていたということです。
この記文現在、叡福寺の宝蔵で見ることができます。
七不思議⑥ 聖徳太子の「大乗木(だいじょうぼく)」
聖徳太子の母親、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女の葬儀のとき、聖徳太子は自ら棺を担いで御廟へやってきました。
棺を担ぐのに使ったのは楠木の棒です。
御廟の前で、聖徳太子はその棒を地面にさし、
「自分が説く大乗の法がたくさんの人々に広まり、長く人々を救ってくれるなら、この木はしっかりと根付いて成長してくれるだろう」と言ったとか。
すると、その楠木は新しい芽を出し、しっかりと根付いたのです。
この楠木は「大乗木」として知られ、現在も御廟の西にあります。
大乗木一願お守り
現在、叡福寺ではこの大乗木からつくった「聖徳太子1400年御遠忌記念 大乗木一願お守り」が頒布されています。
叡福寺が明治初期に採取した貴重な古材を使って作られているとのことです。
七不思議⑦ 聖徳太子の遺体の謎
894年に、法隆寺の三網である康仁大徳が@、聖徳太子の御廟に入り、棺の状態を確認しました。
太子の着ていた衣服は朽ちていましたが、亡くなってから何百年も経っているのに、驚くことにご遺体は生きているように柔らかく、とても良い香りがしたそうです。
叡福寺の三鈷の松
叡福寺の聖霊殿の前には三鈷の松が生えています。
三鈷の松とは…
普通の松の葉は二本に分かれていますが、葉が三本に分かれているとても珍しい松の木、特に弘法大師ゆかりの地に生えているものがそう呼ばれています。
三鈷は智慧、慈悲、まごころをあらわし、この松の葉を持っていると三つの福が授かるといわれています。
この葉を紙に包むなどしてお財布に入れておくと財運が、カバンに入れておくと旅行安全のお守りになるといわれています。
せっかくなので、私もひとつ拾って財布に入れておきました。
太子なごみの広場
叡福寺東隣の太子のなごみ広場には、太子御廟内部の模型や十七条の憲法、聖徳太子絵伝のモニュメントが展示されています。
太子御廟内部の模型
太子御廟内部は両袖式、切石造りの横穴式石室で、明治時代初期までは石室内部に入ることができました。
庶民でも棺のそばまで行って祈りを捧げることが可能だったとか。
う〜ん、うらやましいですね。
江戸時代や明治時代初期の記録によれば、羨道は7.3m、玄室は間口約3m・奥行き約5.5m・高さ約3m。
玄室の一番奥に石棺、手前左右に乾漆棺(かんしつかん)が置かれ、乾漆棺は残念ながら断片を残すのみだったそうです。
ところで石棺はわかりますが、乾漆棺ってなんだろうと思って調べました。
Wikiがわかりやすくまとめられていましたので、引用させていただきます。
乾漆棺(かんしつかん)とは、夾紵(きょうちょ、麻布)を漆で貼り重ねる技法によって作られた棺の一種である。夾紵棺とも言う。 乾漆棺には麻布を幾重にも貼り重ねて形成した脱活乾漆棺と、木棺に布を漆で塗り固めた木心乾漆棺の2種類がある。
ごく一部の終末期古墳にみられ、当時最高級の棺として貴人の葬送に用いられたと考えられる。
Wikipediaより引用
奈良まほろばソムリエ検定では同様の技法で製作された脱活乾漆造の仏像の問題が頻発されます。
2級の講座に参加した時にお聞きした話では、高級な材料な上にめちゃめちゃ手がかかる技法なので、数が大変少なく国宝指定されているものがほとんどなのだそうです。
上記のWikiの解説では麻布を使っているということですが、聖徳太子の棺に使われたのは、なんと絹!!だそうで、唯一無二の乾漆棺なのだそうです。
すごいですね、さすが聖徳太子。
奥の棺は聖徳太子の母で、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后、左は太子の妃で太子より1日早く亡くなった膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)、右が聖徳太子の棺とされています。
三人を合葬しているので磯長の三骨一廟と呼ばれています。
十七条の憲法のモニュメント
広場の中央に石柱が17本、サークル状に立てられており、一本に一条ずつ十七条の憲法の条文が刻まれています。
十七本あったので、たぶん、おそらく、きっとそう。
なぜこのようなことをいうかと不思議に思われるでしょうが、訪れた日が灼熱地獄だったので、他の石柱を確認していないからです。
いや、本当暑かったのですもの…(汗)
和(わ)を以(もっ)て貴(たっと)しと為(な)し、忤(さから)うこと無(な)きを宗(むね)と為(せ)よ。
しっかりルビもふってくれていてありがたいですね。
できれば全文、意味も書いててほしかった。
聖徳太子絵伝のモニュメント
真夏にゆくと草と蚊に覆われる羽目になりますので、叡福寺の宝蔵へ行きましょう。
その方が涼しいですし、大きい絵伝をじっくり見ることができます。
今回は叡福寺に伝わる聖徳太子のお墓にまつわる七不思議を中心にご紹介しました。
他にも伝説やみどころのある叡福寺。
別の機会があれば、またご紹介したいと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
御朱印
磯長山 叡福寺
聖徳太子御廟がデザインされた御朱印に聖徳廟の墨書きです。
DATA
叡福寺
所在地 | 大阪府南河内郡太子町太子2146 |
拝観時間 | 8:00~16:00 ただし南大門の開門は7:00〜17:00 宝蔵は9:30〜16:30(受付は16:00まで) |
拝観料 | 境内散策は自由 宝蔵は土日祝日のみ開館で大人300円 |
駐車場 | 門前に無料駐車場あり 約15台 |
アクセス | 近鉄長野線「喜志」駅、または近鉄南大阪線「上ノ太子」駅より金剛バス「聖徳太子御廟前」バス停下車すぐ |
公式サイト | 上之太子 叡福寺 |
太子なごみの広場
所在地 | 大阪府南河内郡太子町太子2150 |
時間 | 24時間 |
駐車場 | 無料駐車場あり 30台ほど |
アクセス | 近鉄長野線「喜志」駅、または近鉄南大阪線「上ノ太子」駅より金剛バス「和みの広場」バス停下車すぐ |
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