長年にわたって奈良県・斑鳩町の観光を支えてきた「一般社団法人斑鳩町観光協会」が、2025年3月末をもって解散されました。法隆寺iセンターや斑鳩町観光自動車駐車場の管理期間が終了したことに伴うものですが、そのお知らせをSNS(X)で見たときには、まさか…と驚きを隠せませんでした。今回は、観光協会の最後のイベントとなったガイドウォーク「斑鳩の里 魅力発見!〜並松・龍田・小吉田をめぐる〜」に参加させていただき、歴史ある町並みや地域に伝わる話など、ガイドさんの案内でたっぷり堪能することができたので、当日の様子や気づき、見どころをレポート形式でご紹介していきます。
ツアールート
①法隆寺iセンター(集合場所)- – – ②法隆寺松の参道 – – – ③吉田奈良丸碑 – – – ④法隆寺石灯籠(参道入口)- – – ⑤並松の地蔵堂 – – – ⑥業平姿見の井戸 – – – ⑦継子(日切り)地蔵 – – – ⑧浄慶寺 – – – ⑨龍田神社 – – – ⑩吉田寺
※ – – – 徒歩
歴史ある松並木と聖徳太子にまつわる松の逸話
集合場所の「法隆寺iセンター」のすぐそば、世界最古の木造建築として知られる法隆寺には、実はあまり知られていない正式な参道があります。
法隆寺の「正式な参道」とは?

法隆寺を訪れる人の中には周辺の駐車場から南大門へ向かってしまい、この松並木を通って境内に入ったことがない方もいらっしゃるのではないかと思います。実は私がそうでした(汗)
実はこの松並木。鎌倉時代から続く「正式な参道」なのです。
この参道が作られたのは、鎌倉時代中期。当時の上皇である後嵯峨(ごさが)上皇が法隆寺に行幸(ぎょうこう=天皇が訪問すること)されたことがきっかけといわれています。
この行幸にあたって、法隆寺ではお寺の内外を丁寧に清掃し、上皇を迎える準備を整えたそうです。
後嵯峨上皇とは?簡単に時代背景をチェック
「後嵯峨上皇って誰?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。少しだけ歴史をひもといてみましょう。
後嵯峨上皇は、あの有名な承久の乱(1221年)で知られる後鳥羽上皇のお孫さんです。つまり、鎌倉時代の中ごろの人物ということになります。
このように、法隆寺の参道は800年近い歴史を持つ由緒正しい道といえるかもしれません。
松の木に込められた意味とは?
松並木の参道。歩いていると荘厳な気持ちになってくるほど立派な松の木がずらりと並んでいるのですが、実はこの松の木には特別な意味があるそうです。

法隆寺では、仏像の前にも松が供えられるそうですが、それは、聖徳太子の幼少期の逸話に由来しているといわれています。
『聖徳太子伝暦』の中に松に関するエピソードがあり、それによると、太子が3歳のころ、お父さんである用明天皇からこう尋ねられます。
「松の木と桃の木、どちらが好きですか?」
それに対し、太子はこう答えます。
「桃の木は、きれいな花を咲かせてもすぐに散ってしまいます。でも、松の木は一年中葉を茂らせ、枯れません。だから私は松の木が好きです。」
この話から、法隆寺では松が大切にされるようになったといわれています。
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吉田奈良丸とは?浪曲を極めた明治のスター浪曲師

「吉田奈良丸(よしだ ならまる)」という名前を聞いて、誰だろう?と思われる方が多いかもしれません。ですが、明治時代の浪曲(ろうきょく)界では、一世を風靡した大スターの一人でした。
そもそも「浪曲(ろうきょく)」ってなに?
浪曲とは、三味線の音色に乗せて語る日本独特の話芸です。「浪花節(なにわぶし)」とも呼ばれ、明治時代の初期からはじまりました。
落語や講談と並んで、「日本三大話芸」のひとつにも数えられています。一つの物語は30分ほどで、情感たっぷりに語られるのが特徴。昭和の初めには全国に3,000人以上の浪曲師がいたほど人気がありました。
現在では少しマイナーになりましたが、再評価の声もあり、再び注目されつつある伝統芸能です。
以下の動画は三代目吉田奈良丸だと思いますが、百聞は一見に如かずということで、さわりだけでも聞いていただければ、どんなものかわかると思いますのでよかったら聞いてみてください。
吉田奈良丸の人生 〜 浪曲に全てを捧げた男
吉田奈良丸(本名・竹谷奈良吉)は1851年生まれ。タバコ問屋の四男として奈良で生まれました。のちに綿商人の家へ婿入りし、大阪で問屋支店を設け、自らその経営を行っていました。
そんな奈良丸が運命的な出会いをするのは、大阪・千日前の路上。大道芸の一つ「チョンガレ(弔歌連)」を耳にして衝撃を受け、「これで生きていこう!」と浪曲の道を志します。
それからは、「浪曲ばかり歌っていて使い物にならん!」と家を追い出され、さらには実家からも勘当されてしまいます。
しかし、浪曲師・吉田音丸に弟子入りし、修行を重ね、遂には自ら台本も手がけるようになります。奈良丸の語りは「優美で格調高い」と評判が遠方まで広がり、最盛期にはなんと60人以上の弟子がいたと伝えられています。
練習の声が法隆寺まで!? 斑鳩町とのゆかり
奈良丸は奈良市から明治30年(1897年)に現在の斑鳩町へ移り住みました。
弟子たちの練習している声が、法隆寺の中にまで響いてきたというエピソードが残っています。

大正4年(1915年)に63歳で逝去。その後、彼の功績を讃えて、弟子である2代目・吉田奈良丸によって記念碑が建立されました。現在は子孫の方が斑鳩町に移住され、町がこの記念碑の管理を行っています。
まさに斑鳩町が誇る文化人のひとりです。
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法隆寺の献灯一対に込められた想い 〜 石灯籠が語る歴史の移ろい

奈良県の世界遺産・法隆寺は、飛鳥時代の空気を今に伝える貴重な場所ですが、実はその参道にも、長い歴史と人々の祈りが刻まれています。
かつての参道は石灯籠から始まっていた

現在の法隆寺参道は、国道25号線を渡ってから南大門へと続いていますが、もともとの入り口は、実は今も残る大きな石灯籠のあたりでした。ところが、昭和16年(1941年)にこの場所に幅4mの産業道路が通され、その後、昭和27年(1952年)に国道25号線として拡張されました。
交通量の増加により、やむを得ず参道は約100メートル後退。石灯籠は、かつての参道の始まりを静かに語りかけるように、今もその場に残されています。
「なんまつ」と呼ばれた重要な場所

石灯籠があるこの地は「並松(なんまつ)」と呼ばれています。平安時代から鎌倉時代にかけて、法隆寺とこの後に向かう龍田神社は、地元の人々にとって信仰の中心でした。
並松はこの二つの聖地をつなぐ交通の要所。多くの人々が行き交うことで、自然と商人たちの町が形成され、賑わいを見せていったと考えられています。
石灯籠に刻まれた時代 〜 天保の祈り

この一対の石灯籠の背面には「天保十三年」の銘が刻まれています。この年は、ちょうど「天保の大飢饉」の後。多くの人が困難に直面した時代です。
そんな中、「聖徳太子に町の繁栄を祈って献灯したのではないか」と言われています。この石灯籠には、ただの照明器具としてではなく、「町の繁栄を願う人々の心」が込められているのかもしれません。
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筒井順慶と松永久秀の戦いを今に伝える並松の地蔵堂

こちらの地蔵堂は老朽化のため、昭和56年(1981年)に再建されました。このお堂には戦国時代の壮絶な戦いで亡くなった戦死者を弔うために建てられたという伝説があります。
戦国時代、並松で繰り広げられた激戦
時は永禄13年(1569年)。筒井順慶と松永久秀の軍が、この並松の地で激突しました。筒井順慶率いる4000騎に対し、松永久秀の軍勢は7000騎。多勢に無勢で残念ながら筒井軍は敗れてしまいます。
その時、『殿(しんがり)』という、退却する軍の最後尾で味方を守る重要な役目を果たし、筒井順慶の命を救った人物がいました。それが、今もこの地で続く大方(おおかた)家の祖先です。
大方家の活躍と地元への貢献
戦場で名を挙げた大方家の先祖は、その後武士を辞め、農民としてこの地に残りました。江戸時代には代々庄屋(地域のまとめ役)を務め、地域の発展に大きく貢献。現在はニシキ醤油株式会社を営み地元ブランド「法隆寺醤油」を製造しています。斑鳩ブランドにも認定された逸品とのことで、一度味わってみたいですね。

大方家には、江戸時代の暮らしや文化を伝える貴重な古文書が今も大切に保管されており、その量たるや地元の斑鳩文化財センターで「大方家の古文書展」を開催できるほどとのことです。
戦国の名残を感じる並松の風景

地蔵堂のそばには、現在は老木となり伐採されていますが、かつて高さ10mもあったとされるいぶきの木がありました。
また、となりにある道標(道しるべ)には、「龍田」「信貴山」「大阪」「京」「櫟本(いちのもと)」「田原本」といった地名が記されており、ここがかつては交通の要所であったことが伺えます。
昭和のにぎわいと、今の並松
かつてこの並松は、昭和初期には賑やかな商店街として栄えていました。しかし、昭和40年代から大型ショッピングセンターの進出により徐々に人通りが減り、今では静かな町並みとなっています。
少し前までは、東側の入り口に「並松商店街 皆様ありがとうございます」という昔のアーケード看板が残り、往時の面影を伝えていました。
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恋の伝説が映る水面〜業平姿見の井戸とは?

国道25号線沿い、斑鳩町役場前にひっそりとたたずむ「業平姿見の井戸(なりひらすがたみのいど)」。この井戸には、平安時代の貴公子・在原業平(ありわらのなりひら)にまつわる切ない恋の伝説が残されています。
平安のイケメン貴公子・在原業平とは?
在原業平は『伊勢物語』の主人公として知られる人物。当時、容姿端麗で女性にモテモテだったと言われています。まさに平安のスーパースター。そんな業平が、恋人である「高安姫(たかやすのひめ)」を訪ねた夜に、悲しくも少し笑ってしまうようなエピソードが語り継がれています。
ご飯をしゃもじで!?恋が冷めた一瞬の出来事
ある晩、業平は河内(現在の大阪府東部)に住む高安姫に会うため、高安山の峠までやってきます。

峠の松の木の下で笛を吹き、姫に合図を送ったものの、なかなか出て来ません。不安になった業平は姫の家まで行き、そっと東の窓から中をのぞきます。
すると、なんと姫がご飯の残りをしゃもじですくって直接食べている姿を目撃してしまいます。その姿に業平は幻滅し、百年の恋も一気に冷めてしまいました。驚きとショックで、業平は慌てて逃げ帰ってしまいます。
姫の悲恋と、水鏡に映った業平の姿
姫は業平が見ていたことに気づき、慌てて彼の後を追いかけます。業平は途中にあった大きな木に登って身を隠しますが、その姿が、下にあった井戸の水面に映ってしまいます。
その水鏡に映る業平を見つけた姫は、業平に抱きつこうとして思わず井戸に飛び込んでしまった・・・そんな切ない伝承が、「業平姿見の井戸」の名の由来です。
井戸は弘法大師が掘った!?「五百井戸」の由来とは
弘法大師が掘った井戸というのは全国にたくさんありますが、この井戸は、その弘法大師が500番目に掘ったとされており「五百井戸(いおいど)」とも呼ばれています。この名前が、今の地名「五百井(いおい)」の由来になっています。
ただし、実はこの場所、地理的には少しややこしい一面もあります。井戸のある場所は「龍田南」に位置していますが、「五百井」という地名は現在も別の場所に存在しています。 それは、この井戸のある場所が、かつての「五百井村」の飛び地であったためで、井戸の名前と地名の由来が密接に結びついていることがわかります。
下の地図は赤線で囲われているのが「龍田南」で、井戸は「龍田南」の北東隅に位置しています。五百井は「龍田南」の南方、赤で塗られた部分。井戸と五百井が飛地になっているのがわかります。
今も水が湧き続ける、語り継がれる井戸
現在、業平姿見の井戸は蓋で覆われてしまっており、情緒もなにもないのですが、今でも水は湧いています。使用こそされていませんが、地域の人々によって大切に守られており、毎年7月14日には「地蔵会(じぞうえ)」が開催され、業平会の人たちが井戸の水を入れ替え、手入れをしています。

また、井戸のそばには、業平が登ったとされる木の切り株も残されています。かつてはここに大きな木があったと伝わっており、訪れる人々の想像力をかき立てます。
業平道と古代の龍田道
この井戸がある場所は、古代から続く「龍田道(たつたみち)」沿いに位置しています。在原業平が、奈良の櫟本(いちのもと)から恋人に会いに通った「業平道(なりひらみち)」も、この井戸の近くを通っていたとされています。
継子(日切)地蔵とは?一茶も詠んだ伝説と信仰の地

「継子地蔵(ままこじぞう)」あるいは「日切地蔵(ひぎりじぞう)」と呼ばれるこのお地蔵さまは、江戸時代の俳人・小林一茶がその存在を詠み込んだことでも知られています。
一茶も心動かされた「継子地蔵」の伝説
江戸時代後期を代表する俳人・小林一茶(1763~1827)は、旅の途中でこの地を訪れ「薮かけのお地蔵さん(=草むらの中にひっそり佇む地蔵)」を見て一句を詠んでいます。
ぼた餅や 薮の仏も 春の風
― 小林一茶『おらが春』
春風にそよがれながら、ぼた餅が供えられたお地蔵さまが、まるで心地よさそうに見えた…そんなやさしい情景が目に浮かぶようです。
でも、この地蔵さまには、さらに奥深い伝説が残されているのです。
継子を救った石のお地蔵さま
昔々、大和の国・龍田村に、継子(ままこ・血のつながりのない子)をいじめる性格の悪い継母(ままはは)がいました。彼女は、10日もの間、食べ物を継子に与えず、ようやくご飯を一杯見せびらかしながら、こう言いました。
「このご飯を、あそこの石地蔵が食べたら、あんたにもあげよう」
ひどい話ですね。そんな無理なことを言われた継子は、ひもじさのあまり地蔵さまの袖にすがり、心からお願いしました。
すると…なんということでしょう。石の地蔵が口を開き、目の前のご飯をむしゃむしゃと食べてしまったではありませんか!
この奇跡を目の当たりにした継母は、自分の心の冷たさに気づき、それからは継子を我が子同然に大切に育てたといいます。
この話から、現在でもなお、人々は「継子地蔵」と呼び、お供物が絶えることはありません。
自分の心の冷たさに気づく…というよりは、石のお地蔵さんが動いたら普通に怖いですよね(汗)

願いを叶える「日切地蔵」としての信仰
このお地蔵さまには、もう一つの名前があります。それが「日切地蔵」です。
昭和の時代に入ってから、「特定の日数を決めてお願いをすれば、願いが叶う」と信じられ、御百度参り(ひゃくどまいり)が盛んに行われるようになったことに由来しています。
たとえば「3日間願をかけ続ければ叶う」など、日を限って祈る風習が広まり、「日切(ひぎり)」の名が付けられたのだと考えられます。

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まとめ
法隆寺の参道を歩いていると、静かに続く松並木に、遠い昔から人々が込めてきた想いや祈りを感じることができます。聖徳太子の時代に始まり、後嵯峨上皇、江戸や明治の時代を経て、現代にまで大切に受け継がれてきたこの道は、まさに「時をつなぐ道」と言えるかもしれません。
明治の浪曲師・吉田奈良丸の情熱、戦国武将たちが命をかけた攻防、平安貴公子・在原業平の恋物語、そして人々の願いを受け止めてきたお地蔵さま――斑鳩の地には、さまざまな時代の物語が静かに息づいていました。
さて、次回は聖徳太子の伝承が残る風の神を祀る龍田神社とポックリ往生を願うお寺、吉田寺を中心に紹介します。
ここまで読んでいただきありがとうございました。