飛鳥の亀石の親戚⁉︎ 飛鳥時代の礎石が残る中の太子 野中寺

伝説をたずねて
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下の太子(大聖将軍寺)を訪れたあと、梅雨に突入してしまった為、ポタリングできずにいましたが、梅雨の中やすみの清々しい日、ようやく中の太子と呼ばれる野中寺に訪れることができました。

野中寺は、聖徳太子が建立した46寺院のひとつで、聖徳太子が蘇我馬子の助力を得て建立したと伝えられています。
また、南河内郡太子町の叡福寺(えいふくじ)を「上の太子」、八尾市の大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)を「下の太子」と呼ぶのに対し、野中寺(やちゅうじ)は「中の太子」と呼ばれ、聖徳太子ゆかりの「河内三太子」のひとつです。
境内には三重塔や金堂跡など飛鳥時代の伽藍の一部が残されていて、国の史跡に指定されています。

今回は、塔跡、金堂跡、中門跡をみて聖徳太子が生きていた時代を感じてみたいと思います。

塔跡

野中寺境内の西側には方形の土壇があります。

1986年(昭和61)年の発掘調査で、この基壇は凝灰岩と呼ばれる白い石を加工してそれを表面に貼り付けていたことがわかりました。
凝灰岩は経年劣化で色が変わってしまうそうですが、創建当時は白く美しい基壇だったことでしょう。
基壇の規模は東西13.6m、南北12.9m、高さ1.5m。
基壇上面には、心礎を取り囲むように、12個の礎石が配置され、中央に丸い穴が穿たれたひと際大きな礎石は塔の中心柱を支えた心礎と考えられています。
北東隅(写真右下)にある礎石は花崗岩ですが、そのほかの礎石は安山岩です。

基壇東側面には、凝灰岩の石材を用いた階段が備えられていました。
この事から塔は東向きに建っていたと考えられます。

亀の線刻がほどこされた不思議な心礎

そして、こちらが心礎の写真。

表面には、亀の容姿が線刻によって表現されているのですが、なんとな〜く、奈良県明日香村の亀石に似ていると思いませんか?
写真だとピンとこないかもしれませんが現地で見た瞬間「亀石やん」と個人的には思いました。
この心礎の材質は花崗岩。
そして明日香村の亀石の材質も花崗岩。
質感が同じなのでよけいに似ていると思うのかもしれません。
この線刻がどういった意図で刻まれたものなのかまではわからずじまいで野中寺のミステリーです。

この心礎の大きさは東西3.35m、南北2.13m、厚さ約1.8m。
上面には写真のように直径71cm、深さ28cmの円孔があり、その周囲に半円形の添木穴が三方にあるのがわかります。

なんとなくミッキーマークに見えなくもないですが、この形、明日香村の橘寺の心礎と共通する特徴なんだそうです。

円孔の内側の南西部分には、方形の舎利孔(ここに舎利を納めていた)が開けられていますが、これは飛鳥・奈良前期の心礎の特徴で、奈良時代後期以後は簡略化されていき次第になくなっていきました。

出土した当時の瓦からわかること

塔跡の発掘調査では、たくさんの瓦が出土しています。

その中でも注目を集めたのは「康戌年」(庚戌年)という文字が線刻された平瓦。
この「康戌年」(庚戌年)という年は西暦650年に当たり、この時期には塔が建立されていたと考えられています。
ただ、聖徳太子が逝去したのが622年、馬子が没したのが626年なので、三重塔は二人の死後に完成したと考えられます。
ということは、聖徳太子は三重塔はみていないということになりますね。
うーん、残念。
せめて金堂くらいは見たのかな…ということで、次は金堂をみていきましょう。

ちなみに出土した瓦の中には、飛鳥・奈良時代に流行した忍冬紋(にんどうもん)を施した軒丸瓦もあったそうで、復元した軒丸瓦が山門屋根と山門の両壁に使用されています。

金堂跡

境内の東側にある金堂跡を南東方向から臨む。

金堂跡は、塔跡の位置から見て、対峙する形で東側に存在しています。
そして土壇の上には16個の礎石が現在も残っています。
金堂跡は発掘調査をされていないので、詳しいことはわかりませんが、東西四間、南北五間の南北に長い建物が西を向いて建っていたものと考えられています。
そう、塔と金堂は向き合った配置だったと考えられ、同時代の他の寺院にはないめずらしい伽藍配置なのだとか。
そのため、『野中寺式伽藍配置』といわれています。

現在の野中寺境内の様子

山門を入るとご覧のように本堂まで参道がのびています。
そしてその両側には松が整然と植えられています。

松というと小学生の時に読んだ、聖徳太子の伝記の中にあった逸話が思い出されます。

聖徳太子三歳の年に、用明天皇(聖徳太子の父)に「桃と松のどちらが好きか」と問われた太子が「松が好き」と答えるのですが、その理由が「桃の花が美しく咲くのは一瞬だが、松の緑は永遠だから」。

確かに華やかさはないかもしれませんが、凛としてすごく気持ちのよい空間。

この日は太子の足跡を追って訪れたせいか、その話を具現化したようなこの風景に出会えて、なんだかすごくうれしくなりました。

本堂に掲げられた『龍護殿』の扁額

『龍が護る』とは何やらいわくありげと思い、龍に関する伝説でもあるのですかと住職さんにお尋ねしたところ、空海が唐で修行した青龍寺とのつながりから付けられているとのことで、このお寺の寺号『青龍山』もそこからきているとのことでした。

そう、野中寺さんは長い歴史を経て現在は高野山真言宗のお寺になっています。

来目皇子埴生崗上墓(くめのみこ はにゅうのおかのえのはか)(塚穴古墳(つかあなこふん))

野中寺のそばに聖徳太子の同母弟、来目皇子のお墓があるので少し足を伸ばしてみました。

野中寺から南へ900mほど行くと、右手に来目皇子埴生崗上墓(塚穴古墳)があります。
まわりを宗教施設に囲まれている上に東側にはマンションが建っているので、車だと高確率で見落とすかもしれません。
(自分、自転車でしたがまんまと入り口を見落としました。徒歩だったら見落とさないかもしれません)

来目皇子は、用明天皇の第二皇子にして聖徳太子の異母弟とされる人物です。

602(推古天皇10)年2月に征新羅将軍に任命されるものの、新羅に向かう途中で病に倒れ、河内植生山(はにうやま)に葬られました。

この古墳。
現在は宮内庁管轄で正面からしか窺い知ることができませんが、江戸時代以降荒廃し、横穴式石室が露呈していた時期もあったとか。
江戸時代の『河内名所図会』には、両袖を持つ玄室や羨道があり、切石造の横穴式石室であったと記されています。
1898(明治31)年、陵墓に比定。
周囲に濠をめぐらせた一辺54m・高さ9.5mの大型の方墳です。
2005 (平成17)年以降の周辺部の発掘調査で、堀の外側に築かれた大規模な土手が墳丘を取り囲んでいたことがわかりました。
古墳の南側の土手は幅16メートル、高さ2.5メートルで上下2段に築かれ、一部は自然の地形を削り出しているものの、かなりの部分が人為的な盛土によって造られています。
規模は130m四方に及ぶと推定されるとのことなので、かなり大掛かりですね。

陵墓に比定されていても、研究がすすみ、別の古墳が陵墓である…なんて聞くことがありますが、この塚穴古墳は日本書紀の記述と一致するところも多く、発掘調査でも高度で精巧な技術が駆使された陵墓ということが確認されていて、被葬者は来目皇子でほぼ間違いないといわれています。

以下、参考にさせていただきました。

  • 大阪府の歴史散歩(下)
  • 境内の案内板
  • 西国四十九薬師霊場会のHP
  • 羽曳野市HP

DATA

野中寺

所在地大阪府羽曳野市野々上5丁目9−24
拝観時間9:30~16:00
拝観料毎月18日:300円
重要文化財で秘仏の金銅弥勒菩薩像・地蔵菩薩像が御開帳されます。
拝観日のみ庭園から比丘寮(びくりょう)・沙弥寮(しゃみりょう)の外観を臨めます。
18日以外でも境内散策はできます。
駐車場無料駐車場あり。
門前に数台駐められる駐車場があります。
アクセス近鉄南大阪線 藤井寺駅で下車。
南改出口3番のりばから、近鉄バス「野々上」バス停下車すぐ。
公式サイト中之太子 野中寺

来目皇子埴生崗上墓

所在地〒583-0872 大阪府羽曳野市はびきの3丁目5
拝観時間24時間
拝観料無料
駐車場なし
アクセス野中寺から南へ約900m

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