『奈良まほろばソムリエの会 2023秋 大和路ツアー』〜色づく秋、古人が詠んだ歌とともに、古の時代に思いを馳せる〜。
前回は東大寺大仏建立に尽力した行基菩薩の話から、万葉集の中ではめずらしい桜を詠んだ歌、そして大伴氏の盛衰を嘆いた大伴家持の歌を紹介しました。
今回はいよいよ東大寺を訪れて、学校の授業では習わない南大門の金剛力士像の秘密から大仏が建立された時の時代背景を詠んだ歌、そして光明皇后が聖武天皇への思慕を募らせおくった歌などを紹介していきます。
万葉集と東大寺 知識が深まる旅へ
⑤東大寺 南大門〜知られざる金剛力士像の秘密
東大寺の参道を歩いていくと、正面にデーンとそびえているのが南大門です。
この門は鎌倉時代に建てられたもので、現在国宝に指定されています。
その高さは26m。8階建てのビルと同じくらいの高さ…というとイメージしやすいでしょうか。
一見すると、二階建てに見えますが、実は一階建てです。
そして、この門の両脇にはいわゆる仁王さん、金剛力士像が安置されています。
仏師・運慶によって造られた…といわれていますが、運慶がひとりでつくったわけではなく、29名の仏師が集まって、部品をパーツごと(頭・腕・足など)に分けて作り、最終的に合体。
69日で作られたといわれています。
このように大人数で分業することによって、完成までの時間をかなり短縮できるようになりました。
この東大寺南大門の金剛力士像ですが、他のお寺のものと比べると違う点がいくつかあります。
まずひとつは、他のお寺の金剛力士像は南を向いて立ち、参拝者がやってくる方向を監視しています。
しかし、東大寺南大門の金剛力士像は参拝者がやってくる方向ではなく、お互いが向かい合って立っています。
実際に参拝者が南大門を通過する時、真ん中に立って左右に安置された金剛力士像を見ると、像と目が合うようになってます。
本当かなと思って実際に南大門のど真ん中に立ち、その位置から左右の金剛力士像を撮影してみました。
確かに、見つめられているような気がする???
これはあくまで推測とのことですが、運慶がこの像をつくった時にこの金剛力士像に関しては参拝者がやってくる方向ではなく、この門を通過する人を見つめてちょうど目が合うように作られた、といわれているそうです。
それともうひとつの特徴は、東大寺の金剛力士像は、阿形と吽形の立っている位置が他のお寺と逆になっています。
他の寺=向かって右が阿形、向かって左が吽形
東大寺=向かって右が吽形、向かって左が阿形
金剛力士像というのは、阿吽の呼吸、いわゆる阿が最初で吽が終わり、始まりと終わりを表しています。
このことを踏まえて、当時(奈良時代)の都の位置関係を考えるとその謎はとけます。
東大寺の西方には平城宮(天皇の住まわれている場所)がありました。
他の寺と同じように、向かって左(西方)に吽形・向かって右(東方)に阿形を置くと、天皇のいる方向が終わりになってしまいよくないということで、金剛力士像を逆に置き平城宮が始まりの場所となるように考えて安置されたと言われています。
○地図
▪️東大寺 大仏殿の歴史をざっくりおさらい
天平勝宝4(752)年に聖武天皇によって創建されました。
その当時、災害や疫病が蔓延しており、なんとかして平穏な世の中にしたいという願いを込めて大仏を造られました。
大仏造営は国家事業ということで、その当時の日本の人口約560万人のうち、約260万人が動員されたといわれ、物凄い一大事業だったということがわかります。
そんな東大寺大仏殿ですが、残念なことに何度か燃えてしまっています。
まず鎌倉時代に一回。
そして、江戸時代にまた燃えています。
燃えるたびに建て直され、鎌倉時代は重源。
江戸時代は公慶と、江戸幕府五代将軍・徳川綱吉とその母である桂昌院が建て直しに尽力したと伝わっています。
○地図
▪️東大寺真言院〜空海が住寺した東大寺の塔頭寺院
南大門から大仏殿に向かう参道を歩いていると、左側(西方)に建っているのが真言院になります。
真言院は、平安前期に空海が東大寺の別当だった時に建てられて、その後住んでいたとされる塔頭寺院です。
南都における真言教学の拠点(要はお坊さんが勉強するところ)で、大和北部八十八ヶ所霊場の第12番札所になっています。
通常は木柵がされており、参拝を希望する場合は写真の正門ではなく、南側に面する門でインターホンを押して応対できる方がいる時のみ入ることができます。
弘法大師・空海の月命日である毎月21日には午前中に大師堂が開扉されますので、確実に拝観したい方はこの日を狙うとよいでしょう。
また例年4月21日には御影供が行われています。
⑥東大寺真言院の万葉歌碑〜天皇の御世を寿いだ歌
天平感宝元(749)年に国内で初めて金が発見されたことを言祝いで大伴家持が詠んだ歌です。
歌碑の文字は万葉学者・犬飼孝の揮毫です。
この歌が詠まれた当時、東大寺の大仏が造立されている真っ只中でしたが、実は大仏に鍍金(金メッキ)するための金が不足していました。
当時の日本は材料である金を海外からの貢物に頼っており、巨大な大仏を作るには金が足りずこのままでは大仏を完成させることができずに途方に暮れていたのです。
国内をしらみ潰しに探させていましたが、金が発見されたとの知らせが届くことはありませんでした。
そんな折り、陸奥(今の福島・宮城・岩手・青森の4県にほぼ相当する地域)から金が発見されたのです。
その知らせを聞いた聖武天皇は、「これは神仏の力だ、感謝しないといけない、みんなで分かち合おう」ということで仏前に奏された詔の中で、神仏と臣下に対して感謝の意を表しました。
その詔の中で大伴家は累代天皇によく尽くしたと称えられており、その一文を見つけた家持は、感激して「陸奥国より金を出せる詔書」を賀ぐ長歌と反歌を詠みました。
その反歌が、この歌碑の歌になります。
この歌を詠んだ当時、家持は越中国、現在の富山県高岡の国司として赴任していました。
前回の記事で、氷室神社の万葉歌碑でもお話したように、藤原氏や新しい勢力に押されて大伴氏の権勢はかなり弱っている状況下でした。
そのような時に、天皇の宣命を赴任先で見て、「天皇が大伴氏のことをこんなに鮮明に書いてくださっている。これからも天皇のために尽くそう」と喜び勇んで、万葉集の中でも三番目に長い532文字の長歌と返歌を詠みました。
天皇の御代が栄えるでしょうという喜びに満ちた歌を詠んだ家持でしたが、この後も不遇の立場は続き、中央と地方の赴任先を行き来しながら、最終的には多賀城で亡くなったのではないかといわれています。
万葉集の一つの謎といわれているのが、大仏開眼供養に関する歌がひとつも集録されていないことで、万葉集に入れたくない何かが起こったのか・・・いまだに確実な定説はないそうです。
○地図
⑦東大寺の万葉歌碑〜光明皇后が聖武天皇への思慕を募らせおくった歌
大仏を造営した聖武天皇の正妻、光明皇后の歌碑になります。
光明皇后が夫への愛しい思い、さらに不在の夫を案じる思いが込められた歌となっています。
この歌、亡くなった聖武天皇を偲んで詠まれた歌…とお聞きしたのですが、改めて調べてみると、聖武天皇が東国巡幸に出た後、恭仁京を造営した時期、まだ光明皇后が恭仁京に入る前、天皇と皇后が別々に過ごしていた時期に詠まれた歌のようです。
歌の中に出てくる「我が背子」というのは女性が男性を親しんでいう言葉で、夫や恋人のことを「背子」というふうに詠んでいたと言われています。
○地図
まとめ
今回は東大寺を訪れて、学校の授業では習わない南大門の金剛力士像の秘密から大仏が建立された時の時代背景を詠んだ歌、そして光明皇后が聖武天皇への思慕を募らせおくった歌などを紹介しました。
さて次回は観光ガイドに載っていない東大寺の隠れた名所を紹介しながら万葉集に詠まれた植物を紹介していきます。
ここまで読んでくださりありがとうございました。