ならまちに息づく民間伝承をめぐる旅

奈良を知る
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前回の投稿では、奈良まほろばソムリエの案内で、旧元興寺境内のならまちに伝わる『ちょっと笑える博打の神様』の話や、元興寺極楽坊に伝わる『元興神の鬼退治』の話、『カエル石に伝わる怪奇現象』の話などを見てまわりました。

『ならまち遊歩ナイトツアー』のレポもいよいよ最終回。

今回は、元興寺の旧境内地に伝わる民間伝承に込められた人々の願いの旅に誘います。

最初に紹介するのは、御霊神社
ここに祀られているのは宮中の陰謀に巻き込まれ御霊と化した哀しい魂。
その神社を守護する狛犬の足に結び付けられたおびただしい紐が意味するものと、大人気の縁結びの神様を紹介します。

そして次に注目したいのが、庚申堂
ならまちの軒先で見かける可愛い猿のマスコット『身代わり猿』
これは、庚申信仰に基づくお守りだった。

そして宿主の死を願う恐ろしい『三尸の虫』から身を守る方法も紹介しています。

ならまちに息づいてきた民間伝承、それに込められた人々の願いとは

⑬御霊神社

宮中の陰謀と御霊信仰の起源

このお社は、800(延暦19)年に桓武天皇の勅命によって創建されました。

祭神の井上内親王いがみないしんのうは、第49代・光仁天皇の皇后であり、聖武天皇の皇女、そして称徳天皇の異母姉でした。

かなり高貴な血筋ですね。

井上内親王の息子である他戸おさべ親王は、770(宝亀元)年に光仁天皇が即位すると同時に皇太子となりました。
しかし772(宝亀3)年、彼らは天皇を呪詛したとの疑いをかけられ、皇后位を剥奪、皇太子の地位も剥奪されました。

当時、光仁天皇の第一皇子で渡来氏族の高野新笠たかののにいがさを母とする山部親王(後の桓武天皇)を皇太子にする為の藤原百川の策謀だといわれています。

その後、大和国宇智郡やまとのくにうちぐん(現在の五條市)に幽閉され、775(宝亀6)年4月27日に母子ともに薨去しました。
同日に薨去されたことから、殺害(毒殺)されたのではないかと伝えられています。

ふたりの薨去後、旱魃や、疫病、妖怪の出没などに悩まされたため、天皇は彼らの怨霊を恐れ、諸国の国分寺の僧侶600人に金剛般若経の読経をさせ、墳墓を改葬して山陵とし、吉野皇太后の追号を贈り、彼らの御霊を慰めました。

奈良時代〜平安時代の人々は、無実の罪を着せられて非業の死を遂げた人々の怨みの心が怨霊として現れ、災いをもたらすと恐れました
しかし、これらの怨霊を丁重に祀ることで、守護神となり、災いから守ってくれるという信仰が始まりました。
これが御霊信仰です。

現在は、井上皇后、他戸親王を含める八柱の神々をお祀りしています。

狛犬の足止め祈願|狛犬の足に込められた願いと紐の意味

御霊神社の狛犬の足にはおびただしい数の紐が結び付けられていてちょっとびっくりします。

これは江戸時代から伝わるおまじないで、当時は家出人や悪い場所通い(賭け事など)の足が止まるように。
ならまちでは子どもが神隠しに遭わないように、という願いを込めて紐を結びました。

最近では拡大解釈され「恋人とずっと一緒にいられますように=縁結び」「客足が遠のきませんように=商売繁盛」という願いを込めて狛犬の足に紐を結んでいく人が増えているそうです。

紐の結び方ですが、どんな結び方でも良いというわけではなく、『叶結び』という、結び目の表が「口」、裏が「十」の形になり、合わせると「叶」の字になる結び方が用いられています。
この結び方には、願いが叶うようにという思いが込められているそうです。

狛犬の足に紐を結んでお願い事をしたい方は、開門時間の8:00〜16:30の間に神社に行きましょう。
狛犬のそばに、『足止め紐入りの狛犬おみくじの箱』が置かれています。

時間外に行くと片付けられてしまうので要注意です。

境内にひっそり佇む出世稲荷神社は大人気の縁結びの神様

京都にも同じ名前のお稲荷さんがあったなぁと思っていたら、実はそこから分霊されたお稲荷さんでした。
どうりで同じ名前のはずですね。

京都の出世稲荷は、幼い頃から稲荷神を信仰していた秀吉が、聚楽第造営の際に、邸内に勧請したのがはじまりです。

後に後陽成天皇が訪れ、農民出身から天下人へと出世した秀吉に因んで、稲荷さんに「出世稲荷」の名前を授けました。

この出世稲荷は、昭和27年に京都の出世稲荷神社から分霊されたものです。

最近では、縁結びの力が強いことで有名で、しばしばメディアでも取り上げられています。

また、ハート型の絵馬も人気があります。

誰よ、この二人

この出世稲荷神社。

単純にお稲荷さんが祀られているのかと思いきや、よく見ると五柱の神様が祀られていました。

大己貴命おおなむちのみこと  
稲倉魂命うがのみたまのみこと
猿田彦命さるたひこのみこと
天鈿女命あめのうづめのみこと
保食命うけもちのみこと

立身出世よりもなぜ縁結びで人気なのかと不思議だったのですが、なるほど。
大己貴命が祀られているのですね。
大己貴命といえば出雲大社に祀られている大国主命(縁結びの神様)と同じ神ですもんね。

そして、ハートの絵馬に描かれているのは誰よって思ったんですけど、夫婦神と言われている猿田彦命と天鈿女命でしょうかね。
猿田彦…イケメンやな。

○地図

⑭元興寺 小塔院跡|菩提を弔う100万基の小塔

764(天平宝字8)年におこった恵美押勝えみのおしかつ(藤原仲麻呂)の乱後の動乱を鎮めるため、また乱で亡くなった人々の菩提を弔うために、称徳天皇によって発願され、770(宝亀元)年に完成した100万基の木製の小塔

その小塔を収めるために建てられた小塔院があった場所といわれています。

ツアーで訪れた時は夜で入れなかった為、日を改めて門の中に入ってみました。

夏の名残りのムクゲが素敵なトンネルでお出迎えしてくれました。
リアルで見た時はもっと「すごーい!!」って感じだったのですが、撮影センスよ…

本当は横位置で撮りたかったけど、向かって左に駐車されていて縦位置で撮らざるを得なかった…

そんなこんなで現在は仮本堂が建っているのみ。

収められていた小塔はどこへ行ったのでしょうね。

さてさて、有名なお坊さんの供養塔もある…とのガイドさんの情報だったので、探してみましょう。

仮本堂の裏手に建っているこの宝塔でしょうか?

手前の石板には護命ごみょう僧』って彫られてる?

草が生い茂りすぎてよく見えない上にピントが甘いですね。
手を抜かずマニュアルフォーカスで撮ればよかった。

護命って誰よ?ってことなんですが、

護命(ごみょう、天平勝宝2年(750年)- 承和元年9月11日(834年10月20日))は、奈良時代末から平安時代前期にかけての法相宗の僧。俗姓は秦氏。小塔院僧正とも呼ばれる。美濃国各務郡の出身。奈良市西新屋町45番地、史跡「元興寺小塔院」に墓が残っている。

日本における法相教学の大成者で、元興寺の法相宗が興福寺の法相宗に上回る原動力となった。著作に天長六本宗書の一つ『大乗法相研神章』5巻などがある。比叡山の最澄による天台戒壇独立運動には僧綱の上首として反対した。一方で真言宗の空海とは親交があり、空海から80歳を祝う詩(『性霊集』巻十所収)を贈られている。

Wikipediaより引用

手持ちの資料には小塔跡の情報がほとんど載っていなかったのでWikiから引用失礼します。

『元興寺小塔院に墓が残っている』ということは、これ、お墓やったんかい⁉︎

承和元年(834年)9月11日、元興寺小塔院で入滅。享年85。
とのことなので、ここで亡くなってそのままここに埋葬されたのでしょう。

個人的な萌えポイントは秦氏ってところと、空海と仲がよかった?というところでしょうか<どうでもいい情報

夏場は蚊がすごいので行かないほうがいいです。
マニュアルフォーカスできないほど蚊がすごいです。

秋は紅葉がとても美しいのでおすすめです。

○地図

⑮庚申堂

疫病を駆逐した伝説

お堂の前でお香立てを三匹の猿が支えているのだけど暗くて何も見えない

ならまち界隈に根づく『庚申信仰』

ならまちをぶらついていると、民家の軒先に吊るされた赤くて丸い物体を見かけます。
この赤い物体は『身代わり猿』というもので庚申信仰の魔除けのお守りとされています。
その中心となっているのがここ庚申堂です。

全面格子戸になっているので、中を覗けそうなのですが、覗いたところで暗すぎて見ません、昼間来ましょう。

内部には、青面金剛、そしてその両脇に吉祥天と地蔵菩薩が安置されています。

さて、ここ庚申堂の起源なのですが、次のようなお話が伝わっています。

庚申縁起によると…

文武天皇の治世に疫病が流行した時のことです。

元興寺の護命僧正は、庶民の命を救うために、一心不乱に祈りを捧げ続けていました。

疫病は日に日に酷くなり、ますます多くの人々が病魔に蝕まれていきました。

そんな中でも、護命僧正の祈りは断たれることなく、ついに1月7日のこと。

青面金剛が現れて、『お前の誠意溢れる祈りに感動したので、疫病を払ってやろう』という旨を告げ、その場から消え去りました。

その後まもなく疫病はおさまり、世には平穏が訪れました。

この奇跡が起こった日は、「庚申の年」の「庚申の月」の「庚申の日」だったとされています。

そして、この日以来、この地に青面金剛を祀り、三尸の虫を退治して健康に暮らせるようにという願いから講を作って仏様を供養したと伝えられています。

護命僧正‼︎

小塔院跡で『護命って誰よ?』なんて言っていましたけど、ここで出て来ましたね。

ここは小塔院跡から目と鼻の先なので、ありえる話かと思ったのですが、

文武天皇の在位が697年〜707年、
護命僧正は750年〜834年を生きた人なので、時代的に合わないということになりますね。

まぁ、伝説系の話にはよくあることですが。

護命僧正が生きていた時はまだ元興寺も栄えていた頃だと思いますし、寺域に庶民が勝手にお堂を建てられるとは考えにくいということで、元興寺の寺域がほとんど燃えてしまい、ならまちが成立し始めた室町〜現世利益色の強い庚申信仰が広まった江戸時代くらいに建てられたのかなと思います。

宿主の死を願う『三尸(さんし)の虫』

庚申信仰と切っても切り離せない『三尸の虫』

庚申縁起の最後にも出て来ましたね。

それで、三尸の虫とはなんぞやってことなのですが…

元々は道教由来の考え方で、人間の体内にいるとされてる三尸の虫が、60日に一度めぐってくる庚申の日に、眠っている人の中から抜け出して、宿主の悪行を天帝に告げ口するとされたもの。

告げ口されると寿命が縮むと考えられていたので、庚申の日は眠らずに過ごすという風習が生まれました。
と言っても、一人で眠気に耐えるのはなかなか難しいものですよね。

そこで、みんなで集まって耐えよう(笑)という庚申待こうしんまちという行事に発展していきました。

庚申待の日は囲炉裏いろりに集まって三尸の虫が嫌うコンニャクを食べ、酒盛りしながら夜を明かしたりしました。

それでは、なぜ三尸の虫は天帝に告げ口するのでしょうか。

それはスバリ!!
宿っている人間が死ぬと自由になれるから。

三尸の虫は人間が生まれた時から体の中にいて、宿主が死ぬまでその体の中から自由に出ることはできないのですね。
庚申の日に告げ口に行った後は、また宿主の体に戻ってくるようです。

告げ口に出て行ったら、そのまま戻ってこなくていいのにね。

ですから三尸の虫は天帝に告げ口に行って宿主の寿命を縮めたり、災難や悪病を引き寄せて宿主の死期を早めようとするわけです。

それに対抗しようと考えだされたのが、庚申待身代わり猿です。

三尸の虫が嫌いなものとしてあげられるのが『コンニャク』『猿』

何故コンニャクが嫌いなのかはよくわかりませんが、猿が仲間同士で毛づくろいしてノミを食べている姿が三尸を取って食べているように見えるからだそうです。

自意識過剰かな…

そんなわけで、家の軒先に猿を吊るして悪病や災難が近寄らないよう、おまじないをするようになりました。

背中に願い事を書いて吊るすと願い事が叶うともされ『願い猿』とも呼ばれるようになりました。

こんなところに願い事を書いたら道ゆく人に見られて恥ずかしいような気もしますけども…

この身代わり猿。
昔は家族の数を吊るしていましたが、最近は個人情報が漏れるということで、標準的な5つを吊るすようになったそうです。

○地図

⑯菊岡漢方薬局

閉まってます。
当たり前か 笑

ここは観光ガイドなどでならまちが紹介される時によく写真でみる場所です。
ならまちのランドマークと言っても過言ではないかもしれません。

今回のならまち遊歩ナイトツアーの終点です。

○地図

ならまちに息づく民間伝承を巡る旅は、人々がかつて何を信じ、どのように生きてきたのかを垣間見ることができました。

御霊神社では宮中の陰謀と御霊信仰の起源にふれ、狛犬の足止め祈願を通じて、人々の願いの形が変化していく姿をみました。

そして、出世稲荷神社では、時代を超えても変わらない恋の願いの強さを感じることができました。

最後の庚申堂では、身近に存在した疫病から人々を守るための信仰が生まれ、庚申待や家族のお守りとして『身代わり猿』を吊るす風習が生まれました。

時代を超えても、人が願うことの基本は変わらないと感じましたが、みなさんはいかがでしたか。

前後編のレポで終わるかと思った『ならまち遊歩ナイトツアー』。
蓋をあければ三部作の超大作になっていました。
1時間くらいのお手軽ツアーなのですが、文字に起こすとかなりボリュームですね。

真夏の奈良でも陽が落ちた後は夜風が吹き抜けて気持ちいいですので、興味を持ってくださった方、来年参加してみてはいかがでしょう。

それではここまで読んでいただきありがとうございました。

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