幻想的な夜のならまち|背筋が凍る歴史の秘話

奈良を知る
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前回の投稿では、『ならまち遊歩ナイトツアー』で、猿沢池周辺に伝わる采女悲しい物語、廃仏毀釈がもたらした幽霊騒ぎなどを見てまわりました。

今回の記事はその続き。

この記事では、元興寺の旧境内地に伝わる数々の歴史と伝説を奈良まほろばソムリエの案内に従って旅した模様をお送りします。

最初に紹介するのは、ならまちの猿田彦神社
ここに祀られている博打の神様ですが、その実、博打の神様とは思えない驚くべきエピソードが伝わっています。

次に注目したいのが、元興寺
邪悪な鬼を退治した元興神がごぜカエルの形をした石がひき起こした怪奇現象。
天平時代の創建時から近代に至るまで、連綿と紡がれた伝説の一端を垣間見ます。

そしてその後は、元興寺塔趾と安政の大地震によりもたらされた悲劇。
かつての風景やその時の人々の様子を思い浮かべながら、現在の町並みを歩きます。

ならまちに伝わる歴史と伝説

⑨猿田彦神社(道祖神社)

博打の神様は実は博打に弱かった⁉︎

嶋嘉橋を背に、南へ歩いていくと程なく左手角に猿田彦神社(道祖神社)が見えてきます。

夜間は境内に入れないため日中に撮影しました

道祖神とは、道路や辻、国境くにざかいといった境界となっている場所に祀り、疫病などの厄災が入ってくるのを防ぐ役割を担っていました。

この神社も周りを見渡すと角地に鎮座していることがわかります。

ここに最初に祀られたのは「幸神さいのかみでしたが、時代がくだると「幸」の字が「塞」に変化。
「塞神」の「塞」が賭け事を意味する「賽」に繋がり、賽子さいころ」との語呂合わせから、勝負のことを司る神へと変化していきました。

現在では『勝負事の神』という形で信仰されています。

夜間は閉じられる鳥居下の門をくぐると、すぐ左側に大きな石、磐座があります。
この石は博打の神様とされていて、ここから石の欠片を持つと勝負事に強くなると言われています。

ところで、この神社にはちょっと笑える伝説が伝わっています。

それは昔、この神社の神様が近くの御霊神社の神様と博打をしたお話です。
結果はこの神社の神様が大負けして、氏子をほとんど奪われてしまったというものです。
最終的に蚊帳まで質屋に入れたというエピソードまで残っています。
なんだか可哀想ですね。
そんなに博打に大敗したのに、今では博打の神=勝負事の神とされているのがなんだか不思議です。

○地図

⑩元興寺

夜間は手前のシャッターが閉じられてしまうため、日中に再訪して撮影しました

歴史

元興寺のはじまりは、6世紀末に飛鳥の地で蘇我馬子が発願した法興寺(現在の飛鳥寺)と呼ばれた本格的寺院です。

それが奈良時代に入り、平城遷都に伴い718年にこの地に移され、元興寺となりました。

当初は盛えていましたが、10〜11世紀ごろに衰退し、そのあと、平安末期に流行した末法思想の影響で、阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)が注目され、それから以後は浄土信仰の中心地となり、再び注目を集めるようになりました。

曼荼羅を祀るお堂は「極楽院」と呼ばれて、次第に元興寺本体とは別の寺院として発展していきます。

もともとの元興寺境内はかなり広大でしたが、火災などで荒廃してゆき、現在は極楽坊、小塔院跡、五重塔趾という形でならまちに点在しています。

現在の元興寺極楽坊

現在、『元興寺』にお参りに行くというと、ここ極楽坊へ来ることが多いです。

平成十年には、古都奈良の文化財の一つとして世界遺産に登録されました。

ならまちはこの古い寺院と、最近新しくできたお店など、新旧の要素が調和した場所として、老若男女に愛される町になりつつあります。

悪鬼がおそれる元興神(がごぜ)とは

元興寺には元興神がごぜという邪悪な鬼を退治する善神のお話が伝わっています。

敏達天皇の時代、子供のいない農夫のそばにが突如として落ちてきました。
雷は「自分を天に戻してくれるなら、代わりに子供を授けましょう」と約束します。

そして数ヶ月後のこと。
農夫は一人の男の子を授かりました。

この男の子は大変な怪力を持っており、後に道場法師として知られることになります。

その頃、寺では夜になると鐘つき堂で鬼の出没が頻繁に起こっていました。
それを聞いた童子は自分が鬼を退治したいと申し出ます。
童子が鐘つき堂にひそんでいると、真夜中に鬼が現れ、童子と壮絶な戦いが繰り広げられました。
童子は鬼の髪をつかみ、一瞬鬼を捕らえましたが、鬼は髪を引き剥がされながらも逃げ去りました。

鬼が逃げ去った場所は今でも「不審ヶ辻子」と呼ばれ、現在のならまちの地名にも残っています。

元興寺では鬼を退治した道場法師を神格化して、「八雷神やおいかづちのかみ」とか「元興神がごぜ」と称し、奇怪な鬼面を伝えています。
元興寺の境内の至るところに鬼神の置き物が置かれているのでこの物語に想いを馳せながら探してみるのも面白いですよ。

カエル石|淀殿の亡霊がおこす怪奇現象とは

元興寺の一角には『カエル石』と呼ばれる石が置かれています。

カエルの置物に囲まれてちょっとほのぼのとしていないこともないですが、このカエル石。

元は河内(現在の大阪府東部)の川べりにあった殺生石だったものを、秀吉が気に入って大阪城内に運び込んだものだったとか。

殺生石を持って帰って、自宅の庭石にするようなものですよね。
怖すぎる…

元興寺に運びこまれる前は、大阪城の乾櫓の向かいにあったといわれています。

この石には、大坂夏の陣で亡くなった淀殿の霊が憑いているとも言われており、阪城の堀に身を投げて溺死した死体が全てこの大石に吸い寄せられたといわれています。

昭和15年に実際にカエル石付近で堀に落ちて助けられた人が語った話によると、
カエル石に腰掛けてスケッチしていたところ、どこからともなく十二単を着た女性が現れて「こっちに来なさい」と扇をあげて呼ぶので、それに従い着いて行ったところ堀に落ちたのだとか。

その後、カエル石は行方不明になっていましたが、ご縁があって元興寺の境内に戻ってきたそうです。

現在では『福かえる』『無事かえる』の名石として毎年7月7日に供養され、怪奇現象も起こっていないとされています。

○地図

⑪芝突抜町(しばつきぬけちょう)の名前の由来

この道を直進すると鵲町へ抜ける

ならまちの町名には歴史上のエピソードから付けられたものが散見されますが、ここ芝突抜町もそのひとつ。

この辺りは、旧元興寺の敷地だった場所で、奈良時代には近くに金堂、講堂、僧坊、東塔などが立ち並んでいました。

しかし、大火の後、境内地は徐々に宅地化されていき、この地域にも新しい道や家が次々と建設され、もともとの鵲町かささぎからここへつながる道がつくられました。
そのため、この町は「突き抜けた」という意味からこの名前がつけられました

何気なく通り過ぎてしまうようなこの町の名からも歴史の重みを感じることができますね。

ならまちには、町屋の軒先の所々に町名のいわれがわかる説明板が掲示されているので、立ち止まって読んでみるのも面白いと思います。

○地図

⑫ 元興寺塔址|安政の大地震がもたらした元興寺の悲劇

元興寺五重塔の礎石

元興寺は古代の寺院で、その史跡は現在、三箇所に点在しています。

この場所には昔、日本一の高さを誇る五重塔がありました。
しかし、170年前に安政の大地震が起こり、近隣の町からの飛び火によって燃えてしまいました
地震が起きた時、この塔はちょうど瓦を下ろして改修作業の最中で、飛び火が来た時、上から順番にあっという間に燃えてしまったそうです。

一説によると、この塔の高さは70mを超え、日本一の高さを誇っていたと言われています。
現存する京都の東寺の五重塔の高さが55m、元興寺近くの興福寺の五重塔の高さが50mですので、如何に大きかったか分かりますね。

当時はお伊勢参りの帰りに立ち寄ることができたため、多くの人々がこの場所を訪れることを楽しみにしていました。
しかし、火災によって失われ、当時の人々のガッカリ感は半端なかったのではないでしょうか。

だって、現在に生きる私だって、ならまちにそびえ立つ五重塔、見たかったですもん。

今では元興寺塔址の敷地には四季折々の花が植えられ、17個の礎石も残されています。

個人的におすすめなのは春の桜、梅雨の紫陽花、秋の萩、極々まれーに積もる冬の雪景色でしょうか。

○地図

現在管理者不在という事で敷地内に入れなくなっているそうです。
先日(2023.9.28)に訪れた時にも門が閉ざされて中に入れないようになっていました。

この記事では、元興寺の旧境内やならまちに伝わる歴史と伝説をご紹介しました。

猿田彦神社の博打の神様が実は博打に弱かったという意外な話、天平から続く元興寺の歴史、元興神が悪鬼から恐れられていた話、カエル石と淀殿の亡霊が巻き起こす怪奇現象、そして安政の大地震がもたらした元興寺の悲劇。

まだまだ続く、奈良まほろばソムリエによる『ならまち遊歩ナイトツアー』

次回がいよいよ最終回です。
震えて待て。

それではここまで読んでいただきありがとうございました。

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